御霊信仰とは

由緒・沿革

平安時代は国風文化・貴族文化が隆盛した時代である事は皆様よくご存知だと思いますが、一方で災害や疫病の流行が繰り返し起こった不安な時代でもありました。医術や科学が未発達の時代において次々に起こる災いになす術がなく、官民を問わずその恐怖に畏れおののいた事でしょう。

当時の人々はその原因を貴人の怨霊がもたらすものと考え、御霊(ごりょう)としてお祀りをしお慰め申し上げることにより、災禍からお守りいただこうと御霊会(ごりょうえ)を行うようになりました。
初めは京の郊外でそれぞれの御霊が祀られていましたが、後にまとめて八所御霊としてお祀りする事で御神徳が高まると考えられ当社が鎮座されたものと思われます。
怨霊となった貴人とは政治抗争の中で冤罪を被り非業の死を遂げられた方々でございます。

『日本三代実録』という国史の貞観五年(863)五月二十日条に文献上最古の御霊会が記載されております。内容の一部を要約しますと…

 この日神泉苑にて御霊会が行われた。藤原基経らが勅命によって監修し、王侯卿士みなが列席した。霊座六前に祭壇を設けて花果を供えて恭しく祭祀を行い、律師慧達に「金光明経」一部と「般若心経」六巻を読経させ、また雅楽寮に曲を作らせて天皇近侍の児童及び良家の稚児を舞人として大唐高麗を舞わせた。また雑技散楽を競ってその能を尽くさせた。この日神泉苑の四門が開かれ庶民が自由に出入りできた。
 
 いわゆる御霊とは崇道天皇、伊豫親王、藤原夫人、及び観察使、橘逸勢、文屋宮田麻呂の事である。事に坐して冤罪のまま亡くなった魂は祟りとなった。近年疫病が頻発し多くの者が亡くなった。天下の人々は御霊が原因であると考えた。京畿より始まり地方まで広がり、夏天秋節ごとに御霊会が行われ恒例となった。

 
疫病とは咳逆(新型インフルエンザのようなものか)・天然痘・赤痢などで、医学が未発達であった当時多くの人が亡くなりました。さらには最大の都市であったが故に人口密度に比例して感染の威力も凄まじく全くなす術が無かったでありましょう。それだけに人々は怖れおののき、切なる願いから御霊信仰が広まっていったと考えられます。
朝廷もこの事態を受けて官主導の盛大な御霊会を催したのでありましょう。神泉苑を一般に開放することは誠に特別なことであります。
こののち祇園御霊会、紫野御霊会など盛んに行われていきます。

当社は神泉苑御霊会に祀られた六座に二座加えた八座をお祀りしており八所御霊と申します。
鎮座された年について雑誌などで間違って伝わっておりますが、本当の所は全く不明でありまして、おそらくこの頃祀られたと考えられます。初め愛宕郡出雲郷の下出雲寺(のちに廃絶)の境内に鎮座されたと伝わっております。今で申しますと寺町今出川の北辺りと考えられます。後に新町出水の西に移り天正18年(1590)に現在地に鎮座されました。

皇室の御崇敬
古来皇居の御産土神として御尊崇殊に厚く、霊元天皇は修学院御幸の御途次、享保八年四月六日、同十三年二月十一日の両度御輦を社頭に寄せて御祈願あらせられました。又各御代を通じて大小となく宮中に御事があるか又は当社祭事等にはその都度毎に、御代参、御祈祷、御湯立、神楽御奉納などの儀がありました。
なお神社における神事、遷座、修理等に当っては、必ず白銀等御寄附御下賜の事がありました。又各宮の御参拝御供等は絶えずあらせられました。
明治維新以降には、同十年二月一日明治天皇京都御駐輦の御時に勅使堀川侍従を参向せしめて幣帛料を奉り給い、同月十日特に永世保存のため金七百円を御下賜あらせられました。又有栖川宮、閑院宮、久邇宮、賀陽宮、北白川宮を始め奉り皇族の御参拝は度々あらせられ、大正十二年鳳輦奉造に際し賀陽宮より御下賜金があり、本殿以下修理事業に対し、高松宮、閑院宮、賀陽宮より何れも御下賜金がありました。

江戸時代初期の「京童」に

 下御霊 神は人のうやまふにより威をまし 人は神の徳によりて 運をそふ 
 かたじけなくも此の御神は やんごとなき御かたも あまた御氏子にもたせおはします

とありますように御所及び皇族の御殿並びに多くの公卿の邸宅が氏子地域にありました。


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